高円寺と音楽の繋がりを阿波踊りから考察

高円寺ミュージシャンの歴史をふりかえる

今も状況は変わっていないが、音楽に限らず芸術を志す若者は総じてビンボーである。その点、ボロアパートが多く区内でも比較的物価の安い(特に飲食店)高円寺は音楽をやるには適している。そしてレコード店が出来、スタジオが出来、ライブハウスが出来、更にミュージシャンを夢見る若者らを集めている。

高円寺が音楽の街となったのは、おそらく1960年代終わりごろからだと思われる。当時は、今のようにモノも情報も飛び交っていない時代。高円寺には「ロック喫茶」というものがあり、アメリカやイギリスのヒット曲をかけていた。ビートルズの解放間際のころである。こうした店に、洋盤など高くて買えないというミュージシャン志望者が終結。その場で知り合った面子でセッションを行ったりするうちに、今度は自然発生的にロック喫茶が現在の形のライブハウスに進化していったという。かくして山下達郎のミュージシャン人生は高円寺から始まり、吉田拓郎は『高円寺』という曲を歌い、南こうせつ、井上陽水、渡辺貞夫、憂歌団、上田正樹などが高円寺のライブハウスで活動することになったのである。

その後、主流となるジャンルをフォークからハードロック、パンクなどへ変動させながらも(もしくは増やしながら)、高円寺はミュージシャンの登竜門的存在であり続けた。仕舞いには、杉並区郷土博物館が「高円寺フォーク伝説」という特別展を開くありさまである。今も駅ガード下などには、ストリートミュージシャンがギターを抱えて歌っている。

なぜ彼らは受け入れられたのか

しかし、江戸から続く門前町である高円寺。なぜ当時全国的に忌み嫌われていた「長髪」のフォーク青年を受け入れたのか。それは、元来の高円寺に「何でもあり」的な雰囲気があったからではなかろうか。

その雰囲気は、今や全国的な知名度を誇る高円寺のイベント「東京高円寺阿波踊り」に表れているように見える。

高円寺の阿波踊りは、昭和32年に町おこしの起爆剤として、高円寺の商店街が「阿波踊りのようなもの」を導入した。阿波踊りは、戦国期に阿波(徳島県)で始まったとされる盆踊り。明治期に全国的に広まりだしたが、基本的には地方のものであった。これを、いきなり高円寺は採用してしまったのである。しかも最初は「適当にまねしてみた」というのが真相のようだ。その後、早い段階で本家徳島県の連(阿波踊りグループ)と協力関係を結び学習し、今では本格的なものとなっている。

そして、いきなり高円寺の阿波踊りは大いに盛り上がる。参加者は増え、会場はどんどん大きくなり、仕舞には東京都内のほかの地域でも阿波踊りを取り入れるところが出てきて、今度は高円寺の阿波踊り連が、そこへ乗り込み踊る始末。そのスタートはいかにいも場当たり的、盛り上がればいいじゃん的経緯に聞こえて仕様が無いが、大成功しているのである。

突如阿波踊りを始め、それを成功させてしまうような街高円寺。夢見る怪しげな若者でも簡単に受け入れてしまう土壌なのである。

参考:日本の特別地域特別編集 東京都杉並区

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